歯が浮いて堪らないので、洗面台で歯茎を見てみると、入墨をしたように真っ黒になっている。自身のものとは思えない。鏡のなかで歯をむき出している私は、いわれのない言いがかりをつけられて困惑している烏賊のようである。
とにかく歯を磨こうと、歯ブラシを湿らせ、口に含む。
すると、ぴたりと歯ブラシは左奥歯に吸い付いて、動かなくなる。
どういうことかとまた口をあけると、歯ブラシの毛先の一本一本を、左奥歯の白い歯から生えているつやつやした小さな小さな腕たちがしっかりと握っているのである。エナメル質から直接生えた数百本の小さな腕たちは、そろって頑固そうにぴくりとも動かない。
私は急に気分が悪くなって、洗面台に吐こうとした。Oの字になった口から、さらに多くの歯から生えた腕が伸び、突き出た歯ブラシの柄を真ん中から苦もなく折る。そして、私の唇の裏側に吸い付くようにして、粘膜をむりやり縫い合わせる。
口を裏側から縫い合わされた私は、もう吐くこともできない。
ばたりと前のめりに倒れると、いつしかそこは見知った市ヶ谷の坂である。急な斜面を転がり落ちるかとおもったとき、幾億本もの白い小さな腕たちが、私の体の皮を突き破って生えた。路傍で大の字になって、もう二度と起きられない私は、ナマコやヒトデの類、棘皮動物のようだろう。