■背景
先日、塩谷さんと伊藤さんと、浅草の「駒形どぜう」でどじょう鍋をつつきながらお話していたときに、ふと、塩谷さんがと言われた。「一般的なデカルト理解は『方法序説』に偏っているよね。じつは僕も『情念論』を読んだことがないんだけれど」。「私、読んだことありますよ!」とすかさず言い、淀みなくその結構を説明しようと試みたが、読んだことあるがあるにもかかわらず、箸を持ったまま絶句。
デカルトの『情念論』には何が書いてあるのか、覚えておけばよかった。
■素材
■覚えていた断片
・デカルト(1596-1650)は、『方法序説』(1637年)のなかで、「暫定的道徳」をかかげている。
→「暫定的道徳」の内容までは覚えていない。
1.自分の国の法律と習慣に従うこと。
2.一度決心したことは断固かつ毅然として行うこと。
3.つねに運命よりも自分に克つことにつとめ、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように努力すること。
・『情念論』(1649年)にはそんな「暫定的道徳」でなく「決定的道徳」の構想がなされている。
・その決定的道徳のキーとなるのが「高邁générosité」という概念。
→「高邁」だったか「誠意」だったか、記憶があやふやだったが、「高邁」、これが正しい。
・情念一般に対してデカルトが取る態度は、「欲望」を土台とする情念passions(=受動passions)を、知性および意志(=能動actions)によって統御しようというもの。それが自由で高貴な生き方に繋がる道である。
→『情念論』は読み味としては、モンテーニュ(1533-1592)の『エセー』に近いものがあるけれど、デカルトはこの本を読んでいたのか?
・しかし、デカルトは、情念一般が有害なものであると考えているのではない。(ストア派的な無感動を目指しているわけではない)
→この当時、魔女狩りの風習がまだ残っていたはずだが、一般的にフランスでは情念一般についてどのような解釈がなされていたのか?
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