2-3.真正性が問題となる〈世界〉への接近方法
賢治が化学や物理学、地質学、鉱物学などにも造詣が深かったこと。法華経の熱心な信者であり、日蓮主義の在家教団、国柱会に参加していたことは、よく知られている。ここから、科学者でもあり、宗教家でもあり、童話作家、詩人でもある宮沢賢治、という広く知られているイメージが培われるのだが、そもそも、賢治は自然科学や宗教という枠組みに何を求めていたのか。 この問いの答を示唆するのが、未完成の短編童話「学者アラムハラドの見た着物」(1923)である。ある日、老学者アラムハラドは、彼の塾の学童たちに人間の本質を問う。そのとき、子どもたちがその本質を、二足歩行や言葉を話すことである、といった通俗自然科学に求めても、アラムハラドはその答えを認めない。そして、大臣の子が、饑饉がやむなら足を切っても惜しくないと宣言したとき、アラムハラドは涙し、正義を愛することこそが、人間の本質であると説く。 しかし、そんな老師に対して、塾内で最も年少のセララバアドはこう答える。「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」。セララバアドのこの答に対して、しばし瞑目したアラムハラドは、「うん。そうだ。人はまことを求める。真理を求める。ほんとうの道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことはちょうど鳥の飛ばないでいられないとおんなじだ」と答え、「決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまえたちをまもる。それはいつもおまえたちを教える。決して忘れてはいけない」と念を押す。 やはりここでも表明されるのが、アラムハラドを通して語られる、賢治の、真正性への希求である。同短編のなかで、自然科学、宗教という枠組みは、どちらも「人間の本質」を吟味するために用いられている。 しかし、賢治が「人間の本質」の吟味という目的のためにから考えれば、地質学や鉱物学の知識はその目的から外れている。むしろ次のように考えるべきだろう。賢治がその真正性を希求していたのは、〈世界〉への接近方法であったと。 賢治はくり返し、『春と修羅』の作品を、詩ではなく「心象スケッチ」であると表明している。この心象スケッチには、制作年月日を入れることが常となっている。その理由について、「書簡200 森佐一あて」(1925年2月9日)で彼は、心象スケッチが「或る心理学的な仕事」のためのデータであるからだと述べている。「私がこれから、何とか完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の支度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません」と。また、「書簡214a 岩波茂雄あて」(1925年12月20日)では、「六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。〔心象スケッチは〕心もちをそのとほり科学的に記載したもの〔…〕厳密に事実のとほりに記録したもの」だと述べている。吟味されているのは、人間の本質だけでなく、歴史や空間も含めた〈世界〉であり、その正しい吟味の仕方、つまり〈世界〉への正しい接近方法こそが、一貫して求められている。 2-4.引用元としての〈世界〉 ここでわざわざ〈世界〉とカッコに入れて表すのは、賢治においては、記録や歴史、あるいは地史などのデータよりも、「心象」が何よりも重要視されるからである。『春と修羅』の「序」(1924)では次のように述べられる。 これらについて人や銀河や修羅や海膽は ところで、私たちは「世界」という言葉を理解するとき、いったい何をしているのだろうか。賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と断言するとき、「世界」という言葉を理解したり共感したりする私たちは、何をしているのだろうか。 判断の留保だ。「世界」という言葉は、それが結局のところどこからどこまでを指すのか、なぜその領域が世界と呼ばれうるのかについて、みずからの根拠づけを留保されている。 それでは、判断を留保するとはどういうことか。フッサールは「エポケー」を「かっこに入れる(einklammern)」ことと言い直しているが、判断を留保するとは、かっこに入った当の言葉を、どこかの引用元から引用することに他ならない。賢治だけでなく、私たちは多くの場合、誰かがそう言っているところのさまざまな概念を引用していることを忘れたまま、それらの言葉を引用して=判断を留保して、使っている。 それでは、かっこに入った言葉の引用元はどこなのか。ある言葉についてのそもそもの引用元、そんなものは存在するのだろうか。もちろん、存在しない。引用元がない場合、私たちは引用元を作ろうとする。言い換えれば、私たちは引用元から何かを引用してある言葉を語るのではなく、何もないところからある言葉を引用して、そのあとでその言葉の引用元を作る。この順番は逆ではない。賢治の場合、彼の表すさまざまな言葉の引用元は、〈世界〉と呼ばれるものであった。そして、賢治は、この引用元としての〈世界〉へと接近する方法、〈世界〉から引用する方法が「ほんたう」の方法であることに、非常にこだわるのである。 引用元としての〈世界〉に、真正の方法で接近すること、真正の方法で引用することを求めるということは、ある特定の方法を真正のものとして絶対視するということではない。むしろ、その接近・引用の方法として、すでに広く敷衍している既定の回路(例えば、自然科学の法則や宗教の教義)をそのまま採用してよいのかという問いを、賢治は抱え込むことになる。 例えば、童話「銀河鉄道の夜」最終稿の冒頭で、望遠鏡で天の川を見ると何に見えるかと先生に聞かれて、ジョバンニはそれが天文学的には星であるとわかっていても絶句する。 ジョバンニも手をあげやうとして、急いでそのまゝやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないといふ気持ちがするのでした。
by warabannshi
| 2013-02-20 21:36
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