「宮沢賢治と精神分析―奇妙さと隣り合うために―」【後編】
4.宮沢賢治の作品の推移と、真正性のあり方

4-1.「氷河鼠の毛皮」他――創作の起源

 賢治をおとなう幻覚・幻聴を生み出す要素現象が、彼においては〈世界〉と呼ばれること、そしてそれを症状の形成へと展開させるメカニズムが、「まこと」、「ほんたう」としてくり返し表明される真正性への希求であることをこれまで見てきた。初期の短歌制作期において、了解不能な要素現象はひたすら奇妙なものであり、不安の源泉であり、彼の精神に闖入するものであった。
 しかし、賢治はこの了解不能なものと折り合いをつけることになる。『注文の多い料理店』の「序文」や同書所収の「鹿踊りのはじまり」においてもそう言明されていたとおり、賢治の作品の多くは彼によって、どこかから飛来してきたものとして扱われる。例えば、童話「氷河鼠の毛皮」(1923)は、次のような言明が作品に挿入されている。

 このおはなしは、ずゐぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来たのです。氷がひとでや海月やさまざまのお菓子の形をしてゐる位寒い北の方から飛ばされてやつて来たのです。

 これが多分風の飛ばしてよこした切れ切れの報告の第五番目にあたるのだらうと思ひます。

 これが風のとばしてよこしたお話のおしまひの一切れです。

 あるいは、短編童話「黄いろのトマト」(制作年不明)は、「博物局十六等官 キュステ」が、小さい頃博物館の剥製の蜂雀から開いた話に関する、成人してからの回想録であり、しかもその回想を賢治が翻訳するという二重の構造を採っている。また、賢治が亡くなった翌年に発表された童話「ポラーノの広場」(1934)も、「十七等官 レオーノ・キュースト」の作品を翻訳したものとなっており、賢治の作品が彼自身の企図から生まれたものでないことを示すひとつの形式となっている。
 これらの言明や形式は、創作に伴う緊張として――そこに何かがある(生き生きとした体系的妄想がある)ことはわかっているが、その何かが、どこから来たのかはわからないという緊張として表れる。くり返すとおり、この緊張をもたらすものが、賢治の場合は〈世界〉であった。そして〈世界〉からの真正な引用方法として、賢治は諸々の自然科学と法華経(宗教的価値)を採用する。

4-2.「青森挽歌」――トシの死

 しかし、1922年12月、賢治のもとに新しい要素現象が到来する。最大の理解者であった妹トシの死である。心象スケッチ「青森挽歌」(1923年8月)の内容は、題名の通り、死んだトシへの哀悼である。長大な作品の最後の部分は以下のようになっている。
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき……
     《おいおい、あの顔いろは少し青かったよ》
だまってゐろ
おれのいもうとの死顔が
まっ青だらうが黒からうが
きさまにどう斯う云はれるか
あいつはどこへ堕ちやうと
もう無上道に属してゐる
[……中略……]
     《もひとつきかせてあげやう
      ね じっさいね
      あのときの眼は白かったよ
      すぐ瞑りかねてゐたよ》
まだいってゐるのか
もうぢきよるはあけるのに
すべてあるがごとくにあり
かゞやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けっしてひとりをいのってはいけない》
ああ わたくしはけっしてさうしませんでした
あいつがなくなってからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかったとおもひます

 注目すべきは、この最後の、二重括弧の中の言葉に地の文の言葉が反論している部分である。心象スケッチ集『春と修羅』では括弧が頻繁に用いられているが、その多くが、挿入される語り手の所感(「春光呪詛」など)、風景描写の補足(「丘の眩惑」など)である。
 異なる語りが相互に越境しあう関係になっているのはトシの死に関する作品のみであり、とりわけ、「あたらしくぎくっとしなければならないほどの/あんまりひどいげんじつ」とされるトシの死をどのように受けとめるかが問われている「青森挽歌」では、それまでは留保されていた、そもそも存在しない引用元への指示・参照の仕方こそが問題となる。つまり、〈あんまりひどいげんじつ=トシの死〉がここで新しく、了解不能なものとして賢治に見出されることとなったとき、その了解不能なものへの真正な接近方法とは、いったいどのようなものかが、「青森挽歌」およびそれ以降のいくつかの作品での主題となっている。
 愛する者の死における「まこと」とは何か。その最も確実な検証方法は、死んだトシ自身に尋ねることである。
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通って行き
それからさきどこへ行ったかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じやうとするときは
たれだってみんなぐるぐるする

 作品の内容は死んだトシの痕跡を探り、死後のトシの姿やトシが今いる場所の情景を描く試みで構成されている。しかし作品の中ほどで、賢治はトシから受け取ったという通信について、「私のうけとった通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ」と言い、それが真正のものであると信じきれていない。また、死んだトシが「大循環の風よりもさはやかにのぼって行った」と言い、「わたくしはその跡をさへたづねることができる」と、トシが死後に見たであろう幻想的な風景が30行以上にわたって描写されるも、その美容者の最後には、「わたくしのこんなさびしい考は/みんなよるのためにでるのだ」とされ、「まこと」とは承認されない。
 死後のトシについて思考を巡らそうとする努力とそれを虚しいものと見なしてしまう否定的思考が交互に現れるという形で、心象スケッチは書き続けられ、その最後に二重括弧内の対話が出てくるのである。この問答の内容に注目すると、ここでも「まこと」の様態が演じられていることがわかる。
 「《おいおい あの顔いろは少し青かつたよ》/だまつてゐろ/おれのいもうとの死顔が/まつ青だらうが黒からうが/きさまにどう斯う云はれるか」の箇所では、真正性が死んでいくトシの顔色や眼の色の描写というありふれた正確さとされることが強く否定されている。「《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けっしてひとりをいのってはいけない》/ああ わたくしはけっしてさうしませんでした」では、先述の事実における対立とは対照的に、価値においての一致が表されている。
 トシは生前、賢治とともに法華経に入信した唯一の理解者であったが、賢治は彼女の死後、いよいよ法華経に傾倒する。それは、〈あんまりひどいげんじつ〉への真正の接近方法が、価値においての一致として見出され、その価値の内実として採用されているためであると考えられる。
 「青森挽歌」において新しく表れた要素現象、トシの死への接近方法は、この価値においての一致として受け入れられる。だが、賢治の作品史をたどれば、最終的にこの一致もまた、疑問視される。その疑問が中心的なテーマとなっているのが、「青森挽歌」の翌年、1924年の秋から書かれはじめた童話「銀河鉄道の夜」である。

4-3.「銀河鉄道の夜」――「まこと」への真正の接近方法

 これまで宮沢賢治の諸作品を、ヤスパース-ラカンの精神病論と併読することで、“異常な”賢治を、“異常な”私たちが理解・共感できるとはどういうことなのかを探ってきた。そのなかで、ある固定された症状の単位として賢治を考えるのではなく、賢治、そして私たちは、同時に複数の症状の、その形成過程を生きているのではないかという提起を行った。「要素現象」を複数もつことは、病気においては不可能であるが、人間においては不可能ではない。「要素」とはあくまでも症状の要素であり、人間の要素ではないからである。
 賢治の場合、その要素現象は、まず〈世界〉、そして〈あんまりひどいげんじつ=トシの死〉と名付けられうるものであった。この併存する要素現象を展開するメカニズムこそが、「まこと」、「ほんたう」などで示される真正性である。そのため、賢治の作品は、私たちにも、理解・共感しやすいものとなっている。
 それでは、賢治はその創作史の最後に、いったいどのような知見に至ったのか。それを考えるには、賢治童話の代名詞ともいえる「銀河鉄道の夜」が良い素材となる。同作は、賢治の死の直前まで、およそ9年間かけて改稿が繰り返されている作品で、三次稿から最終稿のあいだに非常に大きな改変が加えられている。「一、午后の授業」、「二、活版所」、「三、家」、そしてカムパネルらの溺死という箇所は賢治の最晩年に初めて付け加えられたものである。
 「銀河鉄道の夜」の初期形、いわゆる「ブルカニロ博士編」は、作品が「ケンタウル祭の夜」から始まり、「ジョバンニの切符」の終末部分が大きく変り、最終稿と結末が異なっている。「ブルカニロ博士編」において、カムパネルラの溺死は語られていない。そして、その代わりに、カムパネルラがいなくなったあとの銀河鉄道の車内に「黒い大きな帽子をかぶっ青白い顔の瘠せた大人」が現れ、次のようにジョバンニに告げる。
「けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考えとうその考えを分けてしまへばその実験の方法さえへ決まればもう信仰も化学と同じやうになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」
 そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するとジョバンニは自分といふものがじぶんの考といへものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなわりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。[……中略……]
「さあいゝか。だからおまへの実験はこのきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。けれどももちろんそのときだけのものでもいゝのだ」

 実験の方法さえ決まれば、信仰も化学と同じようになるという言明に、賢治が真正性として自然科学的な手法をイメージしていたことを読み取ることもできるが、より重要なのは、ここでは〈真正性そのもの〉への真正の接近方法が主題となっていることである。この主題はすでに、タイタニック号の乗客であった青年とジョバンニとのあいだの以下のような会話で表されている。
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。
「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです」
「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です」
「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです」
「だからさうぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前にわたくしたちとお会ひになることを祈ります」
[……中略……]ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出さうとしました。

 さらに、先に2-2で引用したジョバンニとカムパネルラが互いに「ほんたうのみんなの幸」のために「どこまでもどこまでも一諸に行かう」と誓い合う場面のあとの会話。
「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。

 いずれも〈真正性そのもの〉への真正の接近方法が、銀河鉄道における別れのシーンで口にされている。これは、〈トシの死〉への真正の接近方法が主題であった「青森挽歌」とは異なる。最終稿で付け加えられる、ジョバンニの親友カムパネルラの死という事態は、「青森挽歌」におけるトシの死ほど過剰な意味づけがなされていない。なぜなら、ジョバンニはカムパネルラとの通信に、すでに成功しているからだ。「ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはづれにしかいないといふやうな気がしてしかたなかったのです」、「ジョバンニは思わずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知ってゐますぼくはカムパネルラといっしょに歩いてゐたのですと云はうとしましたがもうのどがつまって何とも云へませんでした」という確信は、「青森挽歌」において、賢治は死んだトシとの通信の結果に尽きせぬ疑惑を抱いていたことと対象的である。
 逆に過剰な意味づけがなされているのは、それまで要素現象=存在しない引用元を症状へと展開するメカニズムであった、真正性そのものである。「ほんたうのさいわひ」をめぐるジョバンニとカムパネルラの対話、そしてセロのような声をした青白い顔の大人は一貫して推敲の対象となり続け、「ほんたう」は不明なものとして残る。
 ここにおいて、要素現象を展開させるメカニズムであった真正性が、要素現象そのものとなる新しい位相がある。賢治は、言うなれば、レベルの違う二つの症状を展開しているのである。

5.おわりに

 70年代のラカンが精神病論としてジョイスを扱うとき、いくつもの要素現象(=〈引用元〉)が可能となる「サントーム」、中心がないのに中心が無数にあるように見える「ボロメオの結び目」を提起したのは、まさに賢治のように、“病気でない人間”の話にならないからではないか。ラカンにおいては要素現象はシニフィアンのレベルで一元化されているが、それはやはり患者の治療のためと考えるのが妥当で、“病気でない人間”の「ふつうの精神病(psychose ordinaire)」を考えるうえでは、一人の人間における要素現象(〈存在しない引用元〉)の複数性を考える必要がある。このとき、精神病論において(あるいは、病跡学において)病気と人間は別のものとして切り離され、人間の精神の振れ幅をより深く理解する枠組みを示唆しはじめるのではないだろうか。


※  本論文は、日本ラカン協会「I.R.S. ジャックラカン研究」no.9/10号に掲載されています。
by warabannshi | 2013-02-20 21:38 | 論文・レジュメ
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