東京に戻る高速バスが出るまで1時間半ほどあるので、この海岸の町で評判という虫カフェに行くことになる。どうやって知り合ったのかわからないが、サーファーと思しき髪まで日焼けした巨漢が、白いペンキ塗りの家々のあいだを先んじて歩き、案内してくれる。路面のわきに白茶色の砂がたまっているような坂道を歩いていると、なんとなく怠惰な気分になり、海辺にいることを実感する。人通りはない。「閑静な通りですね」。私は愛想を言って、巨漢の後から虫カフェの階段を昇る。
虫カフェのドアをあけると、虫が外に逃げ出さないようにするための工夫か、そこは控室のようになっており、ビロードの清潔な壁紙にシックな鏡と洗面台、予約表と20面体の骰子が慎ましく置いてある小机がある。カフェ、というより、サロンの趣きである。「虫カフェというから、海の家のような麦わら帽子の少年が入るようなのを想像していましたよ」。私は言う。しかし、巨漢はいない。
おや、と思い、奥の扉を開ける。ばらばらばらっと、中から台風の風雨のように、黒いものが吹き付けてくる。思わず顔を覆うが、耳や髪の毛にぶらさがった十数匹のそれらの羽音から察するに、無数のハエである。「さすが虫カフェ!」。私は感動する。鼻からハエを吸い込みたくないので、手で顔を覆い、慎重に息をしながら、すり足で前に進む。羽音が何千と集まって、至る方向から聞こえてくるせいで、方向がわからない。辺り一体が高周波音でざわついている。右足先から、湿気たクッキーのようなものを踏みつぶした感触が背筋を通して伝わってくる。カブトムシ? いや、高価な甲虫をそこらへん放し飼いにしておくわけはない。続いて左足の裏からも、外骨格の抵抗と、それがつぶれることによる抵抗の消失がある。ピーナッツの殻よろしく、雑多な虫は床に撒かれているのだろうか。
不意に首筋に鋭い痛みを感じ、私は反射的に刺してきたそれを叩き潰す。固く瞑っていた目を開けると、部屋いっぱいに詰まっている羽虫や甲虫、鱗翅目の類が一瞬、大きな生き物の体内で働く血球のように見える。壁にはウエイターだかウエイトレスだか解らない洋服を着た人間が数人、標本のように磔になっている。