名前を知らない土壌博物館の一角で、インスタレーションが行われている。インスタレーションの担当が小学生のときの懐かしい旧友の名前であったので、私は薄暗い水飲み場の横の、長方形に切り取られた壁の中の暗闇に入っていく。しばらく歩くと、フィルムが上映されている。ホームビデオのようで、画質が荒い。何人かの小学生、頭の大きさと骨格のバランスからして低学年の児童が、水着の後ろ姿で映っている。市営プールと思しきプールサイドに腰かけて、こちらに背中を向けて、何か喋っている。しかし、その声は大人のそれである。
「加藤っていま何やってるの?」
「大阪にいるみたいだよ。結婚もしたって。仕事は忘れた」
「捕まったやついなかったっけ」
「一人じゃないだろ」
同窓会で話すようなことを、その離される内容をまだ経験していない小学生たちがしゃべっていることに面白さを見出す作品、と一瞬思いそうになるが、それはまだ足りない。私は腰かける。そもそもこの小学生たちの、たぶんJリーグ・チップスのおまけやラメの入ったカードの話をしている姿を、ビデオに映して、それをとっておいた親が素晴らしい。映像はぶれず、きちんと三脚を使っていることがわかる。この作品のテーマが時間であることは間違いないが、どのように時間を愛おしむか、ということがここでのポイントだ。そして、おそらくこのアフレコされている音声もまた、このビデオのために撮られたものではないのだろう。居酒屋のような環境音が混ざっている。アフレコされている声もまた、5年または10年ほど前に録音されたものとみえる。
この水着姿の小学生と、同窓会をやっている声の持ち主とが、同じ人物であるかどうかは、この作品は明らかにしていない。しかし、私には、水着の主と声の主が同じ人物であることがわかる。いずれも知った顔だ。そして、このビデオに私が入っていないということが、私個人にとってこの作品の意味をさらに付加させる。なぜ私はこの作品が始まったプールサイドにいることができなかったのだろう。後悔は、そのような問いとともに、嫉妬の形をとって生じるものであることをひさしぶりに思い出す。