御朱印がたくさん押されているほぼ正方形の重い色紙の四辺にはそれぞれ二字熟語が1つずつ書いてある。四辺のどこに何が書いてあるかわからない状態で、四辺のうちからどれか一辺を選ぶ。そこに記されている言葉が選んだ者にとって刺青のように逃れようのない指針となる。そういう正月や盆に行う儀式がある。無個性な一室で、私は四角いテーブルに着き、3人の名前を知らない同僚とともに、この作業を行っている。私は色紙の表側を見ることはできないが、臨席している者は表側を見ることが許されている。私は座ったまま色紙をかかげ、他の3人の表情を読む。その表情をして、四辺それぞれの吉凶を予め知ろうという賢しらもまた容れられている。
「左右のどちらかにしようと思うんだけど」
私は誰ともなしにそう言う。3人の臨席者は何も言わない。臨席者は口をきくことを禁じられている。いずれの表情も薄笑いである。
「右手の方は譸って書いてある気がする」
事実、擦り硝子を透かすかのように、「譸」という字だけは見える。しかし、この漢字を用いる熟語はもちろん、発音の仕方すらわからない。
「長寿とか、そういう意味合いだろうから、右手の方を選んでおけば安心だよ。左手の方は――」
左の席に座っている同僚が失笑する。笑うことは表情なのか、それとも言葉なのか。
「わからないけれど、選ばない方がよさそうだ。だから、上の辺」
私は選択し、そして色紙の表を見る。形も大きさも鮮やかさもばらばらの朱色の判のなかに、淋漓たる墨痕で「かくあるべし」と書かれている。色紙に書かれているのは二字熟語ではなかったのか。それとも、この一辺だけ特別なのか。あるいは左に座っている同僚の笑いが何かよくない反応を引き起こしてしまったのか。
もともとこの上辺には「かくあるべし」と書かれていたかを同僚たちに聞こうとした瞬間、部屋のドアが激しく叩かれる。その振動で、空宙のどこかから物質ではないTrans-という接頭語が数えきれないほど溢れだし、私の頭に注がれる。同僚の1人はドアが破られないように全身を使ってドアへの乱打の衝撃を吸収している。これもまた指針のもたらした試練なのか。「かくあるべし」と宣託された私はどうするべきなのか。