この過程、つまり創造的状況においてアイデンティティを示す要素が必然的に無視されるということでもっとも期待できることは、芸術を判定する場合、環境との関わり方が問題となり、もはや伝記的資料や時代的設定がそれほど重要な判定の基盤ではなくなるような風土が認知されることである。実際に、創造的状況――創造行為が個人の意見から生じ、それを吸収し、それを再構成するような過程――における個の存在という大問題は根本的に再検討されるであろう。
音楽がわれわれの環境調整にきわめて幅の広い役割を演じているという事実は、言葉が現在われわれの日常生活のなかで演じているのと同じほど直接的で、実用的で、口語的な役割を、音楽が究極的には担うようになることを示唆していると私は思う。音楽が言葉と同じように親しみやすくなるためには、その様式、習慣、マナリズム、秘訣、慣習的な趣向、統計的にひじょうにしばしば起こる事柄、言い換えれば音楽の慣用語が、親しみやすく、だれにでも認められるべきものでなければならない。ある語法のなかに慣用語がどんな多い頻度で認められようと、かならずしもわれわれがこのような慣用語の世俗性におぼれてしまうことになるわけではない。文学的にすぐれた作品が、たまたまわれわれ凡人のしゃべっている言葉で書かれているからといって、それを低く評価することはない。われわれの日常生活のひじょうに多くは、天気をめぐる世間話の前置きや日常の挨拶などあきあきするほど慣れきった言葉に関わっている。しかしだからといってそれは自分たちの使っている言葉の輝かしい可能性に対するわれわれの評価を鈍らせるものではない。逆に鋭くする。そうしたものは、想像力に富む芸術家の生きる場所である前景が、より安定感をもって存在できるような背景を提供しているのだ。…(略)…
もしこのような変化が十分に深いものであれば、芸術についてのわれわれの考えを表現するための専門用語を再定義する必要に迫られるかもしれない。実際、環境芸術の状況を述べるのに「芸術」という語を充てること自体、ますますふさわしくなくなるかもしれない。いかにこの語が歳月を重ね、栄誉あるものであっても、まったく廃語とまではいかないにせよ、かならずや不適切な内容物で充たされるだろう。